今井ゆみは、東京世田谷区の東松原で歯科医を開業している父のもとで生まれました。
実際には、出産でアメリカはニューヨークの実家に帰省していた母が、ニュージャージー州の病院で今井ゆみを出産しました。
アメリカで生まれた今井ゆみは、日本の国籍だけでなくアメリカの国籍も保有していました。
生まれたばかりの今井ゆみは、未熟児でしばらく病院のお世話になっていました。その後、病院を退院して母の実家、祖父母の家で小学校入学前まで暮らしていました。
身体が弱かった今井ゆみは、出産後すぐには飛行機へ搭乗することが出来ず、小学校前まではずっとアメリカで暮らしたのでした。
いま考えると、小学校以降も日本に帰国することなく、ずっとアメリカで暮らしたかったなと思います。そんな思いからニューヨーク恋物語は誕生しました。
小学校前に、ようやく飛行機へ搭乗できるまでに体力が回復して、今井ゆみは母と一緒に日本へ帰国しました。日本へ帰国した今井ゆみは、そこで初めて父と姉の今井祥恵と出会うことができました。それまでは、父とも姉の祥恵ともパソコンを通じてリモートでしか会ったことがありませんでした。
小学校は、姉が通っていた吉祥寺にある私立の小学校に通いました。
自宅は、東京は世田谷の東松原にある父の歯科クリニックに併設された一戸建てで、最寄駅は井の頭線の東松原駅だったため、通学は井の頭線で東松原駅から学校の最寄りの井の頭公園駅まで姉と一緒に通っていました。
その私立の小学校は、小等部から中等部、高等部まであり、12年間いつもずっと毎日、姉と一緒に通学したのでした。姉の祥恵は、アメリカから帰国したばかりで、まだ日本の道路事情がよくわからない最初の間だけ、妹と一緒に通学して、まさか、その後、毎日12年間も妹と通学することになるとは思っていなかったみたいです。
「お姉ちゃん、待って!靴をはいているから」
ニューヨークでは、いつも母や祖父母と一緒に過ごしてきて、日本に帰国してからも、いつもどこへ行くにも姉と一緒に過ごしてきた甘えん坊の今井ゆみは。1人で通学することができず、高校を卒業するまで、ずっと学校の行き帰りは、いつも姉の祥恵と一緒でした。
この時の話は、明星学園物語として書かれています。
その後、多摩美術大学に入学し、絵画科の日本画専攻で日本画を学びました。といっても、多摩美術大学にストレートで入学したわけではなく、ずっと高校を卒業するまで姉と一緒の学校に通っていた今井ゆみは、大学も姉と一緒の大学に通えるものと思いこんでいました。
そして、父の歯科クリニックを継ぐため、医者を目指していた姉の祥恵は、慶應大学の医学部に入学しました。特に、父の歯科クリニックを継ぐ気もなく、医者になる気もない今井ゆみでしたが、姉と同じ大学に通いたかったために東京大学の医学部に入学しました。
同じ大学に通いたかったのに、姉の祥恵は慶應大学に入学して、妹の今井ゆみは東京大学に入学することになった。その辺の経緯については日本画家のコーナーにて書かれています。
大学卒業後、印刷会社や看板会社にてパソコンを使用したグラフィック作業について学んだ後、横浜の小さな貿易会社に就職した。
その会社は、日本から世界に向けて中古車を輸出する貿易会社だった。会社のいったい何が気に入ったのかはよくわからなかったが、今井ゆみは母の小さな赤いベンツに乗って、毎日無遅刻無欠席で、東京の東松原から横浜まで通勤していた。
そんなお気に入りの会社が閉社することとなってしまい、今井ゆみは無職になった。
無職になった今井ゆみは、特に慌てることもなく、毎日自宅で母の家事を手伝いながら、のんびりと過ごしていた。
妹には特別甘い母も特に慌てることなく、毎日ゆみちゃんと一緒にいれて楽しいなどと話していた。そんな妹と母を見かねた姉の祥恵は、自分の会社経営の勉学も兼ねて、プリンセストレーディングという貿易会社を起業した。
プリンセストレーディングの事業内容は、中古車や自動車を輸出する貿易会社だ。あえて妹が毎日気に入って通勤していた横浜の貿易会社と同じ事業内容にしたのだった。
プリンセストレーディングの事業は順調で毎年業績は右肩上がりだった。
その後、祥恵の中等部時代の同級生だった小倉まなみことミンチーも会社に合流して、亡き祖父母の実家があった長野県に本社を設立するまでになった。
一時期、プリンセストレーディングの事業を小倉まなみに任せて、祥恵は妹の今井ゆみを連れてヨットで世界巡航に出かけたことがあった。
その時の話がゆみの世界巡航記てある。