今井ゆみ

多摩美術大学日本画卒。今井デンタルクリニックの次女。父のデンタルクリニック・WEBデザイナー、姉の祥恵のプリンセストレーディング・WEBデザイナーとして活躍中。

WEBデザイナー

大学卒業後、今井ゆみは母の古くからの友人で、東松原商店街でデザイン事務所を構えている女性デザイナーのもとで働くようになっていた。

医大生だった頃には、医学部を卒業したらどっかの動物園か水族館に就職して、そこで毎日動物たちの世話をしながら働きたいという夢があった。

母は、明星学園の近くにあった井の頭公園の動物園で働けば、通勤もしやすいし良いと話していた。でも今井ゆみは、ラッコが好きで鴨川シーワールドで働きたいと思っていた。

そのことを母に話すと、南房総は暖かいしいいわねと、父と姉を東京に残して、母と今井ゆみで鴨川のどこかに家を借りて、そこで一緒に暮らしましょうと乗り気になってくれていた。

美大の日本画に入学してからは、画家なので就職はまったく考えなくなっていた。

今井ゆみは、自分の部屋に画材や絵の具を置いて、動物園にスケッチに行ったりしながら、自分の部屋のアトリエで絵を描いて過ごしたいと考えていた。

基本、今井ゆみのやりたいことには何でも賛同してくれる母は、そんな今井ゆみの考えにも賛同してくれていた。

しかし、父は、そんなニートのような生活はだめだと賛同してくれなかった。

それで、母が近所でいつも仲が良い商店街のデザイナーさんと話をしていて、彼女のデザイン事務所で働かないかという話になったのだった。

はじめ、デザイン事務所での仕事は、今井ゆみにとって腰掛けみたいな感じで勤務時間が終わると、さっさと母の待つ家に帰宅して、アトリエにこもって日本画を描いていた。

それが母の知り合いのデザイナーさん、高橋雅子というので、母は、まーちゃんと呼び、今井ゆみは。まーちゃんおばさんと呼んでいた。

まーちゃんおばさんは、今井ゆみにパソコンでデザインすることを教えてくれた。

Adobeのイラストレーターやフォトショップで絵を描けるのだ。クオークエキスプレスやインデザインで印刷物の版下を作成できるのだ。

日本画の筆で絵を描くのも楽しいが、パソコンのマウスで絵を描くのも楽しかった。

次第に、まーちゃんおばさんの事務所で働いている時間も、自宅のアトリエで絵を描いている時間と同じくらい楽しくなってきていた。

まーちゃんおばさんは、今井ゆみのことを事務所内に滞在させているだけじゃなく、印刷会社や看板会社、製版会社などいろいろなところにも連れていってくれた。

今井ゆみは、印刷会社の大型印刷機や看板屋の大型インクジェットプリンター、製版機などのオペレーション技術を身につけていった。

パソコン内でデザインしたものだけでなく、実際に刷り上がった印刷物や展示会に設置された大型ポスター、今井ゆみがパソコン上でデザインした展示会場が、実際に施工された展示ブースの姿などまで見に連れていってくれた。

「お母さん、まーちゃんおばさんが色々教えてくれるんだよ」

今井ゆみは、夕食の時、きょう会社で会ったことを母に伝えた。

「そう、それじゃ一生懸命に働いて、会社にご恩返ししなくちゃね」

母に、そう言われて、今井ゆみは会社にどんなご恩返しができるのか考えていた。まーちゃんおばさんのデザイン事務所のスタッフは、印刷物や看板、大型ポスターに展示ブースなど基本二次元のものを制作するのは得意だった。

しかし、プログラミング言語を使用して、インターネット上のウェブサイトやアプリなどを制作することに関しては、さっぱりだった。インターネット上で、プログラミング言語について独学で学んだ今井ゆみは、プログラミング言語を組んで、ウェブサイトやアプリなどを開発できるようになっていた。

今井ゆみは、覚えたばかりのプログラミング言語を使って、まーちゃんおばさんのデザイン事務所のホームページを構築して、まーちゃんおばさんに見てもらった。

「ゆみちゃん、このホームページすごいじゃないの」

まーちゃんおばさんは、今井ゆみの作ったホームページを見て、褒めてくれた。

そして、まーちゃんおばさんは、印刷物や看板、展示会場の仕事の依頼だけはなく、ホームページを制作する仕事まで受注してくるようになった。事務所のスタッフの中でホームページを制作できるのは、今井ゆみただ1人のため、ホームページを作る仕事は全て、今井ゆみにお任せとなった。

まーちゃんおばさんの事務所で、今井ゆみはだいたい2〜3年ぐらい働くこととなった。その頃に事務所スタッフの大移動があって、いままで一緒に働いていた仲間がガラリと変わって、全く別のスタッフと入れ替わってしまった。

新しく変わったスタッフたちは皆、5年分飛び級して進学し、大学を卒業している今井ゆみの年齢からは比べものにならないぐらい年輩のスタッフたちばかりになってしまった。

しかも、今度の新しいスタッフの中には、印刷物などのグラフィック作業だけでなく、ホームページなどのプログラムも組めるスタッフが大勢いた。いままで、ホームページのお仕事は、今井ゆみの専売特許みたいなところがあったのに、あっという間に今井ゆみのお仕事は、年上スタッフたちに奪われてしまった。

まーちゃんおばさんのデザイン事務所での居場所を失った今井ゆみは、まーちゃんおばさんの手も借りながら、初めて就職活動というやつを経験することになった。そして、出会ったのが、横浜の貿易会社だった。

「横浜なんて遠くて通勤できないわよ」

初め、今井ゆみが横浜の貿易会社の求人を見つけてきた時、まーちゃんおばさんも、母も反対した。でも、今井ゆみは、東京の世田谷から横浜ぐらいまでなら自動車で通勤すれば、それほど遠くないよと2人に返事した。

今井ゆみは、医大から美大に転入した頃、ちょうど18歳になっていた。18歳になったばかりの今井ゆみは、自動車の運転免許を取得し、世田谷の自宅から八王子の多摩美まで母の小さな赤いベンツで通学するようになっていた。以来、母の赤いベンツは、すっかり今井ゆみの自動車になってしまっていた。

横浜の貿易会社までの通勤も、その小さな赤いベンツで通うようになった。

横浜の貿易会社は、自動車を世界へ輸出する貿易会社で、その会社のホームページを英語と日本語で制作し、ホームページから海外のお客さんを取ってくるホームページの運用までを今井ゆみが担当するようになった。

時には、ホームページの運用だけでなく、自ら英語で海外の顧客とチャットして、中古車オークション会場から顧客の求める自動車を落札して、自動車専用船で輸送、輸出するところまですることもあった。

そんな横浜の貿易会社の仕事が、今井ゆみは気に入っていたのだが、会社の諸事情により閉社することになってしまった。そして、今井ゆみは職を失い、無職となってしまった。

無職になってしまった妹のために、姉の祥恵はプリンセストレーディングを起業した。

姉の祥恵が起業したプリンセストレーディングの事業内容は、横浜の貿易会社と同じ自動車を世界へ輸出する貿易会社だった。あえて妹が一番得意で、気に入っていた仕事内容に合わせたのだった。

姉の祥恵が起業したプリンセストレーディングの詳細については同社サイトをご覧頂きたい。

大学卒業後、今井ゆみは母の古くからの友人で、東松原商店街でデザイン事務所を構えている女性デザイナーのもとで働くようになっていた。

医大生だった頃には、医学部を卒業したらどっかの動物園か水族館に就職して、そこで毎日動物たちの世話をしながら働きたいという夢があった。

母は、明星学園の近くにあった井の頭公園の動物園で働けば、通勤もしやすいし良いと話していた。でも今井ゆみは、ラッコが好きで鴨川シーワールドで働きたいと思っていた。

そのことを母に話すと、南房総は暖かいしいいわねと、父と姉を東京に残して、母と今井ゆみで鴨川のどこかに家を借りて、そこで一緒に暮らしましょうと乗り気になってくれていた。

美大の日本画に入学してからは、画家なので就職はまったく考えなくなっていた。

今井ゆみは、自分の部屋に画材や絵の具を置いて、動物園にスケッチに行ったりしながら、自分の部屋のアトリエで絵を描いて過ごしたいと考えていた。

基本、今井ゆみのやりたいことには何でも賛同してくれる母は、そんな今井ゆみの考えにも賛同してくれていた。

しかし、父は、そんなニートのような生活はだめだと賛同してくれなかった。

それで、母が近所でいつも仲が良い商店街のデザイナーさんと話をしていて、彼女のデザイン事務所で働かないかという話になったのだった。

はじめ、デザイン事務所での仕事は、今井ゆみにとって腰掛けみたいな感じで勤務時間が終わると、さっさと母の待つ家に帰宅して、アトリエにこもって日本画を描いていた。

それが母の知り合いのデザイナーさん、高橋雅子というので、母は、まーちゃんと呼び、今井ゆみは。まーちゃんおばさんと呼んでいた。

まーちゃんおばさんは、今井ゆみにパソコンでデザインすることを教えてくれた。

Adobeのイラストレーターやフォトショップで絵を描けるのだ。クオークエキスプレスやインデザインで印刷物の版下を作成できるのだ。

日本画の筆で絵を描くのも楽しいが、パソコンのマウスで絵を描くのも楽しかった。

次第に、まーちゃんおばさんの事務所で働いている時間も、自宅のアトリエで絵を描いている時間と同じくらい楽しくなってきていた。

まーちゃんおばさんは、今井ゆみのことを事務所内に滞在させているだけじゃなく、印刷会社や看板会社、製版会社などいろいろなところにも連れていってくれた。

今井ゆみは、印刷会社の大型印刷機や看板屋の大型インクジェットプリンター、製版機などのオペレーション技術を身につけていった。

パソコン内でデザインしたものだけでなく、実際に刷り上がった印刷物や展示会に設置された大型ポスター、今井ゆみがパソコン上でデザインした展示会場が、実際に施工された展示ブースの姿などまで見に連れていってくれた。

「お母さん、まーちゃんおばさんが色々教えてくれるんだよ」

今井ゆみは、夕食の時、きょう会社で会ったことを母に伝えた。

「そう、それじゃ一生懸命に働いて、会社にご恩返ししなくちゃね」

母に、そう言われて、今井ゆみは会社にどんなご恩返しができるのか考えていた。まーちゃんおばさんのデザイン事務所のスタッフは、印刷物や看板、大型ポスターに展示ブースなど基本二次元のものを制作するのは得意だった。

しかし、プログラミング言語を使用して、インターネット上のウェブサイトやアプリなどを制作することに関しては、さっぱりだった。インターネット上で、プログラミング言語について独学で学んだ今井ゆみは、プログラミング言語を組んで、ウェブサイトやアプリなどを開発できるようになっていた。

今井ゆみは、覚えたばかりのプログラミング言語を使って、まーちゃんおばさんのデザイン事務所のホームページを構築して、まーちゃんおばさんに見てもらった。

「ゆみちゃん、このホームページすごいじゃないの」

まーちゃんおばさんは、今井ゆみの作ったホームページを見て、褒めてくれた。

そして、まーちゃんおばさんは、印刷物や看板、展示会場の仕事の依頼だけはなく、ホームページを制作する仕事まで受注してくるようになった。事務所のスタッフの中でホームページを制作できるのは、今井ゆみただ1人のため、ホームページを作る仕事は全て、今井ゆみにお任せとなった。

まーちゃんおばさんの事務所で、今井ゆみはだいたい2〜3年ぐらい働くこととなった。その頃に事務所スタッフの大移動があって、いままで一緒に働いていた仲間がガラリと変わって、全く別のスタッフと入れ替わってしまった。

新しく変わったスタッフたちは皆、5年分飛び級して進学し、大学を卒業している今井ゆみの年齢からは比べものにならないぐらい年輩のスタッフたちばかりになってしまった。

しかも、今度の新しいスタッフの中には、印刷物などのグラフィック作業だけでなく、ホームページなどのプログラムも組めるスタッフが大勢いた。いままで、ホームページのお仕事は、今井ゆみの専売特許みたいなところがあったのに、あっという間に今井ゆみのお仕事は、年上スタッフたちに奪われてしまった。

まーちゃんおばさんのデザイン事務所での居場所を失った今井ゆみは、まーちゃんおばさんの手も借りながら、初めて就職活動というやつを経験することになった。そして、出会ったのが、横浜の貿易会社だった。

「横浜なんて遠くて通勤できないわよ」

初め、今井ゆみが横浜の貿易会社の求人を見つけてきた時、まーちゃんおばさんも、母も反対した。でも、今井ゆみは、東京の世田谷から横浜ぐらいまでなら自動車で通勤すれば、それほど遠くないよと2人に返事した。

今井ゆみは、医大から美大に転入した頃、ちょうど18歳になっていた。18歳になったばかりの今井ゆみは、自動車の運転免許を取得し、世田谷の自宅から八王子の多摩美まで母の小さな赤いベンツで通学するようになっていた。以来、母の赤いベンツは、すっかり今井ゆみの自動車になってしまっていた。

横浜の貿易会社までの通勤も、その小さな赤いベンツで通うようになった。

横浜の貿易会社は、自動車を世界へ輸出する貿易会社で、その会社のホームページを英語と日本語で制作し、ホームページから海外のお客さんを取ってくるホームページの運用までを今井ゆみが担当するようになった。

時には、ホームページの運用だけでなく、自ら英語で海外の顧客とチャットして、中古車オークション会場から顧客の求める自動車を落札して、自動車専用船で輸送、輸出するところまですることもあった。

そんな横浜の貿易会社の仕事が、今井ゆみは気に入っていたのだが、会社の諸事情により閉社することになってしまった。そして、今井ゆみは職を失い、無職となってしまった。

無職になってしまった妹のために、姉の祥恵はプリンセストレーディングを起業した。

姉の祥恵が起業したプリンセストレーディングの事業内容は、横浜の貿易会社と同じ自動車を世界へ輸出する貿易会社だった。あえて妹が一番得意で、気に入っていた仕事内容に合わせたのだった。

姉の祥恵が起業したプリンセストレーディングの詳細については同社サイトをご覧頂きたい。

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