ヨット教室物語・第154話
「ここの棚に入っているものは、ヨーロッパから取り寄せたとっても良い食器なのよ」
「お母さんも、変なこと言い出さないでよ」
麻美子は、自分の両親たちに苦笑していた。
「隆は、明日横浜のマリーナ行くのに早いし、そろそろ寝る?」
「そうだね」
「じゃ、弟の部屋のベッドメイクしてくるね」
「いいよ。そのぐらい自分で出来るから」
と、隆は弟の部屋に1人で行ってしまった。
横浜マリーナにて毎年春から秋まで開催されているクルージングヨット教室でのヨット体験を脚色したクルージング物語。
「ここの棚に入っているものは、ヨーロッパから取り寄せたとっても良い食器なのよ」
「お母さんも、変なこと言い出さないでよ」
麻美子は、自分の両親たちに苦笑していた。
「隆は、明日横浜のマリーナ行くのに早いし、そろそろ寝る?」
「そうだね」
「じゃ、弟の部屋のベッドメイクしてくるね」
「いいよ。そのぐらい自分で出来るから」
と、隆は弟の部屋に1人で行ってしまった。
「隆くんが、うちの会社で貿易商になってくれると言ってもらえるなら、こいつの弟なんて、すぐに下ろして、サンフランシスコ店の支店長に昇格させるけどな」
「お父さん、隆が返事に困るようなこと言わないの」
麻美子の父は、隆のことを自分の貿易会社に誘っていた。
「お母さんも、隆くんが、うちの麻美子と一緒になってくれたら、中目黒の実家にあるもの全部、隆くんに譲ってしまうわ」
麻美子の母は、キッチンにある食器棚の中を眺めながら、隆に話しかけていた。
「だってよ」
「別に良いんじゃない」
麻美子は隆に答えつつ、父にも答えた。
「そうなんだ。少し前に、LINEで弟と話した時に、私が隆の買ったヨットに毎週末乗っているって話をしたんだ。そしたら、ヨットなんてサンフランシスコじゃ、周りじゅう海に囲まれていて、あっちこっち走っているから全然珍しくないってさ」
「そうなんだ。サンフランシスコなんてヨットマンには羨ましい環境だよな」
「次の海の日の三連休も、あなたたちはヨットでお出かけするの?」
「そのつもりだよ」
麻美子は、自分の父親に返事した。
「まあ、次の三連休はヨットで出かけてもいいけど、その後の週末は、仕事で弟が帰ってくるぞ」
麻美子の父は、姉である麻美子に伝えた。
「それじゃ、再来週は泊まれませんね」
「隆さんは、麻美子の部屋に予備ベッド持っていって、そこで寝たら良いわよ」
「何も、こんな真っ暗になってから横浜まで車を出さなくても良いんじゃないの」
麻美子の母親は、夜中に横浜まで出かけようとしている2人に声をかけた。隆は、普段、会社がある平日は、ここではなく渋谷の自分の家で過ごしていた。麻美子の母にとっては、隆とは、週末の休日しか会えないので、今夜は中目黒の家で過ごしてほしかったようだ。
「これから、夜道を走って横浜まで向かうのも面倒だし、明日の朝でいいか」
「隆が、それで良いなら、私は別にどっちでも良いけどね」
麻美子は、取ってきた鍵を元あった場所に戻しながら、隆に返事した。
「どうせなら、今夜のうちにマリーナに行って、ラッコに泊まらないか」
隆は、麻美子の母親が作ってくれた夕食を食べた後、麻美子家の皆とリビングでゆっくりしているときに、麻美子へ話しかけた。
「良いけど」
麻美子は、クローゼットに置いていたエスティマの鍵を取ってきつつ、隆に返事した。
「夜のドライブで出掛けちゃおうか」
「社長さん、明日は別に渋谷までお迎えに行かなくたって、隆さんが空いている弟の部屋のベッドで泊まっていけば良いだけじゃないの」
麻美子の母親が、2人の会話に割って入って言った。
「確かにそうでした」
隆は答えた。
「そういえば、車屋さんに奥さんって呼ばれてなかった?」
「うん。隆と出かけると、いつも言われることだから一々訂正しなかった」
麻美子は、隆に言った。
「隆って、前にも会社での運転手が欲しいって言っていたものね。うちから渋谷まで東横線で帰るって話よりも、私に運転手になってくれっていう方が話のメインでしょう」
隆の考えていることをズバリと当ててしまっていた麻美子だった。
「それじゃ、早速、明日の日曜日は、隆社長を横浜のマリーナまでお送りするために、買い換えたばかりの自動車でお迎えに行きましょうか」
「頼む」
「お母さんも、お父さんも、もう車の運転しないし、ここに置いておくのは別に良いと思うんだけど、ここから自分の家の渋谷に帰るとき、隆はどうするのよ」
「俺は、ここからなら中目黒駅から東横線で帰れるし。麻美子に家まで送ってもらっても良いし」
隆は、麻美子に提案した。
「麻美子って、うちの会社で俺の秘書をしてくれているじゃない。なんなら、ここから会社に行く時も、この車で渋谷に立ち寄って、秘書だけじゃなく、俺の運転手もしてくれないかな」
麻美子は、隆の話を聞いて、思わず吹き出してしまっていた。
「運転しやすい?」
「うん。オートマだし、ぜんぜん楽に運転できたよ」
麻美子は、隆に聞かれて返事した。
「あのさ、渋谷の俺のうちのマンションの駐車場ってけっこう駐車料金高いじゃない」
「そうね」
「この車って、今までの車より屋根高めだし、立体駐車場に入るかどうかもわからないし、麻美子の家のここのガレージに置いておいたらダメかな」
「これで座席数もサイズ的にも良いんじゃない」
「麻美子が良いなら、俺はなんでもいいよ」
結局、今の隆の車を、その古いエスティマに買い換えることになった。隆の乗っていた車は、まだ購入したばかりの新しい車だったので、その車を売却すると、古いエスティマが余裕で買えてしまった上に、お釣りまでもらえてしまっていた。
買い換えたばかりのエスティマは、中古車屋から麻美子の家まで麻美子が運転して帰ってきた。
「俺、あんまり自動車の運転って上手じゃないからな」
「この大きさなら、いま乗っている隆の車とそんな大きさ変わらないよ」
麻美子は、ハンドルを握ってクルクル回しながら、窓の外の周りを眺めながら、隆に言った。
「奥様、試乗されてみますか?」
中古車屋の営業マンが、麻美子にエスティマの鍵を手渡してくれた。麻美子は、営業マンから鍵を受け取ると、助手席に隆を乗せたまま、店の周りの道を一周してきた。
「これ、どうかな!?」
麻美子は、ハイエースの車内のベンチシートに寝転がっていた隆のことを大声で読んだ。
「これに乗るの?運転するのに、サイズが大きすぎないかな」
隆は、一瞬だけ運転席に腰掛けてみてから、その車のデカい運転席に、運転するのを諦めたように運転席から降りながら、麻美子に言った。
「え、そんなにサイズ大きくないよ」
隆に代わって、麻美子が運転席に腰掛けた。
「俺は、なんでもいいよ。ヨット以外の乗り物には興味ないから」
隆は、本当に車には興味がないらしく、麻美子と一緒に展示場内の車を物色するのに疲れてきて、ハイエースの車内に設置されていたベンチ型シートに横になって寝転がっていた。
「ね、この車かわいくない!」
麻美子が見つけた車は、古いエスティマだった。たまご型の丸っこい形をした車で、車内には、前、後ろ、中央と3列シートで、ラッコのメンバー全員が乗っても窮屈そうではなかった。麻美子は、そのおとぎ話に出て来るみたいな丸いかぼちゃの車に、香代ちゃんと瑠璃ちゃんが乗っているところを想像して、思わず笑顔になった。
麻美子は、駐車場に置いてある隆の車の運転席に座りながら、隆と話していた。麻美子が運転席に座っているので、隆は助手席に座った。
「どんな車に買い換えるの?」
隆は、運転している麻美子に質問した。
「ラッコの皆が乗れるぐらい広い車にしましょう。6シーターの車ってよくあるじゃない」
麻美子の家の近所にある中目黒の中古車屋に着くと、展示場に置いてある車を物色していた。
「隆は、どんな車が好きなの?」
「そろそろ出かけようか」
土曜日、会社が休みの隆は、いつものように麻美子の母親に誘われて、中目黒の麻美子の家でお昼ごはんを食べた後、リビングでのんびり寛いでいた。
「本当に買い換えるのか」
「だって、あの車じゃ、皆が乗れないでしょう」
麻美子は、隆から車の鍵を取ると立ち上がった。
「なんかお腹がいっぱいで歩くのつらいよ」
「それは、隆が来るからって張り切って料理を作りすぎるお母さんに文句言ってよね」
「今度、もう少し皆で乗れるような車に買い換えようね」
「え、俺はけっこう、この車のこと気に入っているんだけどな」
「これじゃ、皆で乗れないでしょう」
麻美子は、隆に言った。
「隆さんの車どれにするかって、麻美ちゃんが決めるんだ」
「そうね、隆ってけっこう買い物下手なところがあるからね」
隆は、パーティーが終わった後、車の助手席に座りながら皆に言った。麻美子は、運転席に座って、鍵を回して車を運転していた。
「この車って、皆で乗るには、ちょっと狭いよね」
隆の車は、スポーツタイプのクーペ車だ。2シーターではなく、いちおう後部座席はあるが、後部には3人までしか乗れなかった。体が小さく、小柄の香代は助手席の真ん中、隆の横に腰掛けていた。
普段、隆が運転しているときは、助手席の麻美子の膝の上にちょっこんと腰掛けていたのだったが、さすがに隆の膝の上に腰掛けるわけにもいかず、助手席の内側に腰掛けていた。
麻美子は、隆がいつも車の鍵を入れている方のポケットに手を突っ込むと、車の鍵を受け取っていた。
「え、そうなの。それじゃ、運転はお願いしちゃおうかな」
隆は、缶ビールを開けると、陽子の持っている缶ビールに乾杯してから飲み始めていた。隆は、さっきまで麻美子と雪、瑠璃子がしていた会話の内容については何も気づいていなかった。
「今日はレースお疲れ様。来週は普通にクルージングしような」
麻美子たちがおしゃべりをしているところに、当の隆と陽子が戻ってきた。
「やっと、セイルを片付け終わった。2人だけだったから畳むの大変だったよ」
「そう、お疲れ様」
麻美子は、ドラム缶から冷えた缶ビールを出してくると、隆に手渡した。陽子は、既に自分の分の缶ビールをしっかり手にしていた。
「え、俺は、帰りに車の運転があるから」
「大丈夫、大丈夫」
麻美子は、2人に話していた。
「そうだよね。それじゃ、もし隆さんと陽子ちゃんが結婚するってなったらどうする」
「別に良いんじゃないの。2人がお互いに結婚したいって決めたんだったら」
麻美子は、雪に返答した。
「私も喜んで、2人の結婚式に参加させてもらうわよ。そしたら、私は陽子ちゃんから良い人が見つかるようにブーケ投げてもらおうかな」
麻美子は、雪に言われて、思わず聞き返していた。
「え、別に私たちって付き合っているわけじゃないし、ただの大学の同級生だからね」
「はいはい」
雪と瑠璃子は、麻美子の方を見ながらニヤニヤと苦笑していた。
「え、本当だよ。私たちって別に付き合っているわけじゃないからね。ただ、家が渋谷と中目黒で近いってだけで、うちのお母さんがさ、隆のこと気に入ってて、いつもうちへ食事に呼んでしまうのよね」
瑠璃子は、楽しそうに談笑している2人の姿を見ながら、呟いていた。
「本当だね。もしかして、あの2人ってお付き合いし始めたりして」
雪は、わざと麻美子に聞こえるように大きな声で、瑠璃子に返事していた。
「確かに。隆って、もしかして陽子ちゃんと話の波長が合うのかもね」
「心配だね」
「何が?」
「ほらほら、あそこに来ているじゃん」
ラッコの船体から下りてきて、こちらのパーティー会場にやって来る2人の姿を見つけて、雪が叫んだ。2人は、ラッコから下りてくると、パーティー会場に向かってくる途中、会場の隅に置かれていた飲み物のドラム缶から缶ビールを取って、バーベキューで焼きそばをもらって食べながら、楽しそうに談笑していた。
「なんかさ。陽子ちゃんって、ヨットの上で、いつも隆さんと仲良くしてない」
「香代ちゃんは飲まないの?」
「私、お酒って一度も飲んだことない」
まだ21歳の加代は、瑠璃子に聞かれて答えた。
「お酒なんて飲まない方がいいよ」
麻美子は、香代の頭をポンポン撫でながら、言った。21歳の香代のことを、麻美子は、まるで自分のかわいい妹のように思えていた。
「そういえば、隆さんと陽子ちゃんってどうしたんだろう?まだセイルを片付けているのかな?」
瑠璃子が呟いた。
麻美子は、既に2本目の缶ビールを飲んでいる瑠璃子に声をかけた。
「麻美ちゃんは、お酒はぜんぜん飲まないんですか?」
少し頬を赤くしている瑠璃子が、オレンジジュースを飲んでいる麻美子に聞いた。麻美子の横に腰掛けていた雪も、1本目の缶ビールを手にして、飲んでいた。
アルコールを飲んでいないのは、麻美子と香代の2人だけだった。
「私も少しは飲めるけど、今日は帰りに車の運転があるからね」
麻美子は、たぶん隆がパーティーで飲むだろうと思ったから、自分はアルコールを控えていたのだった。
「うん、美味しいね。この焼きそば」
雪は、バーベキューで焼かれていた焼きそばを食べながら、隣の麻美子に話しかけていた。
隆と陽子が、乗り終わった後のセイルとか片付けておくからと言うので、他の皆は、先にパーティー会場に来て、バーベキューの準備を手伝っていたのだった。
準備を終えた後、会場で焼かれた焼きそばと飲み物を先に頂いていた。
「瑠璃子ちゃんって、けっこう飲めるんだね」
隆は、陽子と一緒にラッコのデッキ上でセイルを片付けていたが、ようやくセイルも片付け終わったので、陽子のことを誘って、ラッコから降りると、パーティー会場に移動した。
「隆さん、ビールがあるよ」
陽子は、ドラム缶の中で冷えている缶ビールを手に取った。
「残念だけど、俺は、帰りに車の運転があるから」
「そうだよね、帰りは東京まで運転だよね」
「陽子、飲めるんでしょう。飲んでいきなよ」
隆は、烏龍茶を手にしていた。陽子は、隆に言われて、自分1人だけ缶ビールを頂いていた。
ヨットレースに参加した男性クルーたちは、マリーナ敷地の中央にドラム缶を転がして持ってきて、その中に薪をくべて火を起こす。女性クルーたちは、クラブハウスから紙皿や紙コップ、飲み物に食べるものを準備して、薪の上に鉄板を配置して、その上で焼きそばを焼くのが定番となっていた。
薪をくべたドラム缶以外の空きドラム缶には氷水が入れられて、缶ジュースや缶ビールなどが冷やされていた。パーティー参加者たちは、そこから冷たい飲み物を取って味わっていた。
「もうパーティー始まっているな。俺たちも飲みに行こう」
隆が保管している横浜のマリーナでは、春から秋にかけて艇を保管している会員同士の交流を兼ねて、毎月、月一でマリーナに保管しているヨット同士でのクラブレースを開催していた。
毎年、春からシリーズレースとして第1戦から第6戦まで開催されて、年末に開催される横浜のマリーナのクリスマスパーティーで総合優勝艇として表彰していた。
クラブレースの開催された日には、春の第1戦と夏のレース、秋の最終戦だけは、レースが終わった後に、マリーナ敷地内でバーベキューを準備して、ヨットレース参加者たちが集まりパーティーを開いていた。
「お昼にサンドウィッチしか食べていないから、少しお腹空いてきた」
「後で、クラブレース後のパーティーがあるから、そこで何か食べよう」
隆と陽子は、ラッコのセイルを片付けながら話していた。他のメンバーたちは、サンドウィッチを食べ終わった食器類を持って、マリーナのキッチンに行って、そこで洗い物をしていた。
「レースって、もっと大変なのかと思ったけど、楽しかったね」
「ウララじゃなくラッコに乗ってたから楽だったのかもね」
「あと、陽子ちゃんが全部やってくれちゃってたから」
「陽子ちゃんは優秀よね」
麻美子も頷いた。
マリーナに戻ると、横浜のマリーナスタッフが上下架用の真っ白なクレーンで待っていてくれて、クラブレースを終えてマリーナに戻ってきたヨットたちを順番にクレーンで陸上に上げていた。
ラッコの順番がきて、ラッコの船体も横浜のマリーナスタッフたちの手により操作されてクレーンで陸上へ上げられた。
ラッコの船体は、自分たちの船台上にちょっこんと載せられた。
横浜のマリーナでは、ラッコのようにクレーンで陸上に上げられて、船台に載ってマリーナの敷地内で保管されているヨットやボートと、アクエリアスのように、すぐ近くの海面上に設置されているブイに船を舫って、海上で保管されているヨットやボートがあった。
「でも、あのままアクエリアスのことを見捨てずに、ちゃんと助けてあげられたのだから良かったじゃないの。アクエリアスは、隆がラッコに乗る前までずっとお世話になっていたヨットでしょう」
麻美子は、クラブレースで最後までゴールできなかったことよりも、失格してしまっても、アクエリアスのことを手助けできたことの方が満足そうだった。
「さあ、マリーナに戻ろうか」
ラッコは、横浜の自分たちが停めているマリーナへと戻っていった。
アクエリアスは、そのままスピンネーカーを下ろしてから、ジブセイルとメインセイルで黄色のブイまでセーリングしてからゴールラインを越えてクラブレースをゴールした。ゴールしたアクエリアスの後ろを追走していたラッコもゴールラインを越えた。
「結局、ラッコはアクエリアスよりも後だから最下位になってしまったね」
雪は、隆に言った。
「いや、ラッコは最下位でもないよ。途中からエンジンを掛けているから未ゴールの失格だよ」
「陽子、一緒にアクエリアスに乗り移って手伝って」
隆は、陽子と一緒にアクエリアス側に乗り移ると、アクエリアスのクルーからジブとスピンのシートを受け取って、陽子と一緒にシートを上手いこと操作しながら、セイルの絡みを解いてしまった。
アクエリアスのクルーが4、5人でシートを引いたり出したりしていても解けなかったセイルの絡みを、隆は陽子と2人だけでわずか数分で解いてしまっていた。
「これで大丈夫かな」
隆は、陽子と一緒にアクエリアスから自分たちのラッコに戻ると、ラッコはアクエリアスから離れた。
「エンジンをかけよう」
隆は、陽子に指示すると、陽子はパイロットハウスの中に入り、ラッコのエンジンを始動した。
エンジンが掛かると、隆は、ラッコのクルーたちに指示して舫いロープを準備させて、海上でアクエリアスに横付けした。舫いロープは、船同士を軽く舫うだけにして、クルーたちに船体同士が当たらないように抑えていてもらうと、自分が握っていたラッコのステアリングを麻美子に託した。
「麻美子、ラットを握っていて」
「大丈夫ですか?」
ラッコが、ゴールを諦めてアクエリアスの近くまで戻ってくると、隆は呼びかけた。
ラッコで、アクエリアスのすぐ真横を走りながら、ジブシートを緩めろとかスピンのシートを緩めろと隆は、アクエリアスの船のクルーに向かって指示を飛ばしていた。
隆が指示を飛ばして、その通りにアクエリアスのクルーたちはシートを操作しようとしているのだが、上手く絡まったセイルを解けずにいた。
「ちょっとUターン、タックして様子を確認してくるか」
隆は、すぐ側にいた陽子に言うと、陽子は左側のウインチにジブシートをセットして、隆の方向転換に合わせて、ジブセイルの位置を右から左に入れ替えた。
「陽子はすごいな、もう完全にタックのやり方覚えてしまっているじゃん」
隆は、麻美子の方を振り向かないようにしながら、陽子に言った。
「どうせUターンするなら、最初から言うこと聞きなさいよ」
陽子は、麻美子が隆の頭をコツンと小突いているところを見てしまって、苦笑してしまっていた。ラッコは、ゴールとは反対方向のアクエリアスに向けて走り始めた。
「いや、アクエリアスは大丈夫だと思うぞ」
隆は、麻美子に言われて、後ろをチラッと振り向きながら返事した。中村さんのアクエリアスは、隆が、いま乗っているラッコのヨットを買う前まで、ずっとクルーとして乗っていたヨットだった。
あともう少しで目の前の黄色ブイを回れるし、そこを回ったら、もうゴールも目前だし、このままアクエリアスの事は、ほっておいてゴールしてしまおうかと考えていた。
しかし、チラッと麻美子の方へ目を向けると、麻美子の目が、後ろで困っている艇がいるというのに、あんたは、ほったらかしにしてゴールを目指すのかというきつい目をして睨んでいるように見えた。
絡まり合ってしまっていたアクエリアスのセイルは、一向に外れず絡まったままの状態で、ずっと走り続けていた。隆は、後ろのアクエリアスのことは、ぜんぜん気にせずにラッコを前方へと走らせていた。
「隆、助けに行って上げようよ!」
まったく後ろのアクエリアスのことなど気にもせずに、自分のラッコがレースでゴールする事だけ考えて前方へ走らせている隆の姿を見た麻美子は、なんか隆が冷たい奴に見えてしまい、思わず声が大きくなってしまっていた。
麻美子は、ずっと絡まったままのアクエリアスのセイルを心配そうに眺めていた。
アクエリアスの中村さんとも、冬の間、隆と2人だけで乗っていた時に、何回か沖合いで会ったことがあった。東京で歯医者さんを営んでいる先生で、ヨットでも、麻美子が舫いロープを結べずにいた時に、いつも手助けしてくれるとても優しい良いおじさんだった。
「ね、助けに行って上げようよ」
後ろを気にして、ずっとアクエリアスの様子を眺めていた麻美子が、隆に言った。
レース後半、帰りのコースは、風向き的に追っ手、船の後ろから吹いてくる風だったため、中村さんのアクエリアスではスピンネーカーを上げたのだろうが、スピンネーカーがジブセイルのシートと絡んでしまったらしく、ジブセイルとスピンネーカーのセイルが絡まりあってしまっていた。
「助けに行ってあげないの?」
「自分たちでなんとかするだろうよ」
隆は麻美子に答えた。
「あらら、なんかスピンが絡まっているよ」
ゴールとは反対方向の後ろを眺めていた麻美子が指差しながら叫んだ。
スピンとは、追い風の際に上げてヨットを走らせるセイルのことで、正確にはスピンネーカーと呼ばれるふっくらと丸い形をしたセイルのことだった。
ヨットのセイルは、メインセイルもジブセイルも基本的に白色のものが多いのだが、スピンネーカーのセイルだけは赤やら青やら何色もの色でカラフルに彩っているセイルが多かった。
ようやく赤ブイに到達して、ブイを回ってUターンして復路に入ったラッコがゴールへ向けて走っていると、ゴールラインで待っていた地井さんのモーターボートからラッコのところにも
フォーーーン!
と微かにホーンの鳴る音が聞こえてきた。
「お、レース艇のウララがゴールしたな」
「さっき、すれ違った船でしょう、速いね」
隆は、ラッコのステアリングを握りながら、聞こえてきたホーンの音に反応していた。
「お帰りなさい!」
隆たちラッコのクルーたちは、復路のコースを戻ってくるところとすれ違ったウララのクルーたちに、サンドウィッチ片手に笑顔で手を大きく振って挨拶していた。
「まだレースは、終わっていないぞ」
ウララの松浦オーナーは、ラッコの方を見て笑っていた。
ウララのクルーたちは、まだクラブレースの真っ最中で、お昼ごはんのサンドウィッチどころではなかった。ウインチにジブシートなどを巻きつけて、ウインチハンドルを回して引っ張ったり出したりとセイルトリムに大忙しだった。
結局、クラブレースのラッコは、後ろに中村さんのアクエリアス、ラッコと同じパイロットハウスの付いた重たいクルージング艇を1艇従えての堂々と最後尾、ブービーでゴールすることとなった。
まだ、ラッコは一番先にある赤ブイまでも到達していないというのに、一番先頭を走っていたウララは、既に赤ブイを回ってUターンして、復路のコースをゴールへ向かって走って戻ってきていた。
もうとっくの昔に、クラブレースの順位など諦めているラッコのデッキ上では、ピクニックテーブルを広げて、麻美子の作ってきたサンドウィッチをお皿にだし、ランチパーティーの真っ最中だった。
「せっかく1番だったのに、なんか皆に追い抜かれてしまったよ」
「それは無理だよ。うちのラッコは、船内にフィンランドの木材が多量に使われていて、他のヨットよりも遥かに重たいヨットなんだから」
隆は、あっという間に最後尾に追いやられてしまって残念そうな顔をしているクルーたちに言った。
「ラッコの後ろって、もう中村さんのアクエリアス1艇しかいなくなっちゃったね」
麻美子は、ラッコの後ろを振り返りながら言った。
ラッコのクルーたちは、自分たちラッコのヨットが、他のヨットよりも1番先頭で走っていることに気づいて、口々に話していた。
しかし、しばらく走っていると、ウララがラッコに近づいてきて、そのまま、ラッコのことを追い抜いて行ってしまった。ウララだけではなかった。他のヨットたちも、どんどんラッコに追いついてくると、次々と追い抜かれていき、気づくと一番最後尾から2番目の位置を走っていた。
「せっかく1番だったのに、追い抜かれちゃったよ」
隆のヨット歴は長く、隆が中1の時に、ここの横浜のマリーナで開催されているジュニアヨット教室に参加していた頃までさかのぼる。
隆は、ヨットレースはあまり好きではなく、ヨットの乗り方は常にクルージング派のセーラーだった。
それでも、ヨット歴だけは長かったのとジュニアヨット教室時代は、他のヨット教室の生徒たちとレースで競い合って乗っていたため、ヨットレースの技術は持ち合わせていた。
「ね、もしかしてラッコが一番で走っている?」
地井さんの27フィートのモーターボートが、今日のクラブレースのコミッティ艇を務めてくれていた。コミッティ艇上では、10分前、5分前に旗を掲揚してくれていて、その旗でレースのスタート時間がわかるようになっていた。そして、スタートとともに掲揚していた旗を下ろしてレースはスタートした。
「よし、スタートラインぴったりでスタートできたぞ!」
隆は、地井さんのモーターボートから鳴ったスタートの合図を知らせるホーンと同時に、どのヨットよりも早く一番でスタートラインを越えてスタートしていた。
「クラブレースのコースってわかったのか?」
隆は、ラッコのステアリングを操船しながら、麻美子に質問した。
「金沢沖の赤ブイを反時計回りで回るのよね」
「そうね」
「で、沖合いの黄色ブイを時計回りに回って」
「確か、そうだったわね」
「それで戻ってきたら、そのままゴール」
隆に質問されて、麻美子は相槌ちを打っているだけで、陽子が隆に詳しく説明していた。
説明の中にヨットレースの専門用語が多く出てきて、麻美子には話の内容がほぼ理解できないでいた。
「最初は半時計回りで回るけれども、次のブイは時計回りで回るのですね」
陽子は、松浦オーナーの説明する内容を理解して、松浦オーナーにちゃんと確認も取っていた。
「すごいな、陽子ちゃん」
麻美子は、自分が全く理解できていないヨットレースの説明をしっかり把握している陽子に感心していた。
「松浦さんの話していることを、よく理解できていたわね」
「それじゃ、艇長会議を始めます!」
ウララの松浦オーナーが、艇長会議の進行役を買ってでていた。うちの横浜のマリーナでは、本格的にヨットレースをやっているヨットといえば、松浦オーナーのウララぐらいしかいなかった。
ウララが、ヨットレースに関してはマリーナで一番詳しいヨットとなるため、横浜のマリーナでクラブハウスを開催するときは大概、ウララが陣頭指揮を取ることが多かった。
「本日のクラブレースのコースですが」
松浦オーナーが、クラブレースの開始時間やコースなどについて、今日のクラブレースに参加するヨットのオーナー達に説明していた。
「9時からクラブハウスでクラブレースの艇長会議だってさ」
麻美子は、マリーナ事務所で聞いてきたことを隆に報告した。
「じゃ、麻美子が艇長会議に出て来てよ」
「え、私が?無理だよ、私ってラッコの艇長じゃないし」
「大丈夫。陽子が頭いいから、陽子と一緒に艇長会議に出て話を聞いてきなよ」
麻美子は、隆に言われて、陽子と一緒にクラブハウスで始まる艇長会議に出席してくることになった。
「2人が参加してる間に、うちらは出航準備しておくよ」
「今週は、クラブレースがあるから参加してみようか」
隆は、ラッコのメンバー皆に提案した。
「まだまだヨット初心者で、レースなんて出場できるまで上達できていないよ」
「大丈夫だよ。うちの横浜のマリーナのクラブレースは、本格的なレースではなくて、うちのマリーナに保管されているヨットだけの内輪なクラブレースだから」
隆は、不安そうな瑠璃子に説明した。
「それじゃ、今から夏休みに向けて会社の休暇を貯めておかなくちゃ」
「私、会社の有給休暇は使わずじまいで、けっこう貯まっているから大丈夫」
年齢的にも、勤続年数の一番長い雪が、皆に行った。
「伊豆七島って、どこらへんまで行くの?」
「そうだな。まだはっきりとは決めていないけど、大島、新島、式根島ぐらいまでは行きたいな」
隆は、陽子に答えた。
「海で魚とか釣れたら、魚を野菜と一緒にオーブンで焼くのも良いかも」
陽子が、麻美子に料理を提案した。
「夏になったら、1週間ぐらい使って伊豆七島にクルージングへ行くから、その時、海に釣竿を垂らして、魚を釣ろう。そしたら、その魚をオーブンで料理したら美味しいぞ」
隆は、陽子に話した。
「伊豆七島まで、このヨットで行けるの?」
「行けるさ。このヨットならば、行こうと思ったら、伊豆七島どころか世界中どこへだって行けるさ」
「ラザニアと一緒に、ミートパイも焼いたのよ」
陽子は、ラッコのギャレーに付いているガスオーブンを使ってパイを焼いていた。
「先週、ここのガスコンロの下にオーブンが付いているのを見つけて、焼いてみたくなったんだ」
陽子は、皆に自分が焼いたミートパイの味を褒められて、嬉しそうに話していた。
「オーブンって、こういう使い方できるのね。私も、ラッコにオーブンが付いているのは知ってたけど、どんな料理を作ったら良いかわからなかった」
隆たち横浜のマリーナに停泊しているヨットたちは、お昼の時間になると、よくここの貯木場にヨットを停泊して、皆でキャビンの中でお昼ごはんを料理して、船で飲んだり食べたりしていた。
「本当に、今日は豪華な料理だな」
隆は、改めてメインサロンのテーブルの上に並べられた料理に感嘆していた。これまでのラッコのお昼ごはんといえば、麻美子が自宅で作ってきたタッパーに入った料理をお皿に盛り付けて、テーブルに出して食べるだけだった。ラッコのキッチン、ギャレーには、せっかく立派な調理設備が一式揃った台所が完備しているというのに、それらは全く使われるということがなかった。
ちなみにイルカのプールが置かれている貯木場は、横浜の金沢区にある周りを岸壁で囲まれた港内で、この場所が後に、横浜ベイサイドマリーナというアウトレットモールも併設された巨大なヨットハーバーに生まれ変わることとなった。
横浜ベイサイドマリーナに生まれ変わってからは、お昼を食べようと、マリーナ内のポンツーンにヨットやボートを停泊すると、マリーナ事務所に停泊料を払わなければならないが、横浜ベイサイドマリーナが完成する前の貯木場だった頃は、横浜のマリーナに停泊している隆たちのヨットが、お昼休憩で貯木場内に出入りして、そこに置かれているイルカのプールにヨットを停めようが、誰にも停泊料なんか支払う必要もまったく無かった。