今井隆は、横浜のマリーナに上架された念願のマイボートの姿に感動していた。
「これが、フィンランドの造船所で建造したという隆のヨットなの?」
佐藤麻美子は、横に立っている隆に声をかけた。隆は、黙って麻美子に頷いた。
「寒いよ」
佐藤麻美子は、今井隆に言った。
冬の横浜のマリーナは、海際にあって海風も吹いているし、かなり冷たく寒かった。
ヨット教室物語・第1話
横浜マリーナにて毎年春から秋まで開催されているクルージングヨット教室でのヨット体験を脚色したクルージング物語。
今井隆は、横浜のマリーナに上架された念願のマイボートの姿に感動していた。
「これが、フィンランドの造船所で建造したという隆のヨットなの?」
佐藤麻美子は、横に立っている隆に声をかけた。隆は、黙って麻美子に頷いた。
「寒いよ」
佐藤麻美子は、今井隆に言った。
冬の横浜のマリーナは、海際にあって海風も吹いているし、かなり冷たく寒かった。
今井隆自身は、オーダーから半年以上待って、ようやくフィンランドから日本へ到着した自分のマイボートに嬉しくて興奮しているため、寒さはあまり感じていなかった。
「キールが、これだけ長いだろう。うちのヨットのキールは、ロングキールっていうんだよ」
今井隆は、自分のヨットのキールを一生懸命に佐藤麻美子へ説明していたが、佐藤麻美子の方は、キールがどんな形していようが、どうでも良かった。キールよりも寒さで早く暖かい所に入りたかった。
「中に入ってみるか?」
「ええ、寒いから中に入ろう」
佐藤麻美子は、今井隆の言葉に嬉しそうに頷いていた。
佐藤麻美子は、今井隆の言う中とは、マリーナの建物の中のことだと思っていた。が、今井隆は、自分のフィンランドで出来上がったばかりのヨットの船体に、脚立を立てかけると脚立を登り始めた。
「麻美子、上に上がれる?スカートだし上に上がれないか」
「大丈夫よ。スカートなんてはいてないから」
ロングコートの下の足を開いてパンツを見せた。
佐藤麻美子は、今井隆が立てかけた脚立を普通に登ると、デッキに付いているライフラインを飛び越えて今井隆のヨットの上に上がった。
「普通に上がれるじゃん」
「上がれるわよ。スカートなんて、小さい時以外、私一度もはいたことないし」
「そういえばそうだよな。麻美子は色気ないものな、俺も麻美子がスカートはいてるの見たことないわ」
「早く中に入ろう」
佐藤麻美子は、寒さで今井隆の言葉など聞いていなかった。
今井隆は、ヨットのデッキ上、中央付近に付いているパイロットハウスの両サイドにある扉を開くと、そこから船内に入った。一方、今井隆の新しいヨットの周りに保管されているヨットのほとんどは、デッキ上の床に扉をスライドさせて開く入り口が付いていて、そこから船内に入れるようになっていた。
今井隆のヨットは、フィンランド製のナウティキャット造船所で建造されたヨットで、艇種を「ナウティキャット33」という33フィートのヨットモデルだった。
ナウティキャット33には、デッキ中央部にパイロットハウスと呼ばれる四方を窓で囲まれている部屋があって、船内に操船用のステアリングがついていて、中でも操船できるようになっていた。
その四方についている窓の両サイドの一部が扉になっていて、その扉をガラガラと開くと、船内に入室できるように構成されていた。その船内へ入ってみると、
「ほら、ギャレーっていうんだけど、台所もちゃんと付いているから、麻美子が得意の料理を何でもここで作ることができるよ」
「私、別に料理は得意じゃないけど」
今井隆は、パイロットハウスの一段下に下がったところにある台所を佐藤麻美子に見せていた。
「こっちにはトイレも付いているから、海でトイレへ行きたくなっても大丈夫」
今井隆は、船の前方に付いているトイレルームを佐藤麻美子に見せた。
「トイレは、後ろ側のこっちにも付いているんだよ」
今井隆は、船の後ろの方の部屋に入って、そっちの部屋にあるトイレも佐藤麻美子に見せた。
「鏡台まで付いているじゃないの」
佐藤麻美子は、後部キャビンに入ると、ベッドの横に付いている鏡台に気づいた。
「隆が、メイクとかおしゃれするの?」
佐藤麻美子は、今井隆に聞いた。
普段から全くおしゃれなどしていない無頓着な今井隆が、これを機会に、鏡台でメイクとかして、少しは、おしゃれに目覚めてくれるのかなと佐藤麻美子は思っていた。
「え、俺は別におしゃれなんかしないけど、麻美子はメイクできる鏡台とか必要だろう?」
今井隆は、佐藤麻美子に聞いた。
「私は、今日はたまたま隆のヨットがどんなヨットかなと思って、見に来ただけのことで、普段は別にヨットなんて乗りに来ないけど」
佐藤麻美子は、今井隆にそう返事した。
そう答えていた佐藤麻美子だったが、まさか、これから先ずっと毎週末のように、今井隆の趣味のヨットに付き合わされることになろうとは思ってもいなかった。
佐藤麻美子は、特にヨットに興味があるわけではなかった。
大学時代からの同級生であった今井隆に、自分のヨットがやっと横浜のマリーナに輸入されてきたから一緒に見に行こうと誘われてついてきたのだった。
「このヨットの中で暮らせるんじゃないの」
「うん、暮らそうと思えば暮らせるよ、世界中どこでも行けるし」
今井隆は、佐藤麻美子に答えた。
今井隆は、大学の就職活動中のとき、なかなか内定を取れず、就職先が見つからないでいた。
もうほとんどの同級生たちは、会社から内定の通知をもらっていた時期だった。もちろん、佐藤麻美子も、就職試験を受けた会社から既にいくつか内定をもらっていた。
そんな中の1社に、まだ新卒の求人を募集している会社があった。
「ね、この会社を受けてみたら」
佐藤麻美子は、今井隆にその会社を薦めてみた。
今井隆は、佐藤麻美子に薦められたその会社を受けてみた。すると、その会社に受かって、内定をもらうことができた。
「麻美子も、この会社に就職するんだろう」
「え、そうね・・」
佐藤麻美子は、実はその会社には行くつもりはなくて、別の内定をもらった会社へ行くつもりでいたのだが、今井隆にそう聞かれて、思わず頷いてしまい、結局その会社へ隆と一緒に入社することになってしまった。
佐藤麻美子の所属は総務部で、営業部に配属となった隆とは別の部署になった。
「インターネット上に、こんなサイトがあったら便利だろうな」
今井隆は、その会社で働いているときに思いついたサイトを具現化してみた。サイトなんて一度も作ったことがない、プログラミングのやり方なんて全くわからなかったが、わからないことはGoogleで検索しながら見よう見まねで作り上げた。出来上がったサイトは、ほかの人たちにも使っていて便利と思ってもらえる人気サイトになってしまったのだった。
人気サイトのおかげで、今井隆は、せっかく就職できたその会社を辞めて、自分のIT会社を起ちあげた。
プログラミングなんて全くわからず、サイトの作り方も何もわからなかった今井隆だったが、会社の起業の仕方も何もわからなかった。
佐藤麻美子の父親は、東京の中目黒で輸入雑貨の会社を起業した自営業者で、アメリカのサンフランシスコに支店まで作り、単身赴任でアメリカへ移住していた。
その父親の姿を幼い頃からみてきた佐藤麻美子は、今井隆がIT会社を起ちあげる際、会社の起業を色々手伝ってあげた。
「隆の会社の起業は手伝ってあげたけど、その後は自分でやってね」
佐藤麻美子は、今井隆に伝えた。
佐藤麻美子自身は、特に自分が就職したその会社を辞める気は全くなく、最初の会社の起ち上げ時だけ今井隆の会社を手伝ってあげたつもりでいた。起業した後の会社経営については、
「隆1人で頑張ってね」
と、今井隆にも伝えていた。
「なんだよ、役所に提出する書面作りって難しいな」
「もお!隆、本当に不器用よね」
佐藤麻美子は、書類作りに苦労している今井隆をみて言った。
今井隆は、いろいろ面白いアイデアは出すアイデアマンではあったが、役所に提出する際の会社の書面作りとかは不器用そのもので、大の苦手だった。そんな隆がパソコンで何度も書類を作り直している姿を見ていられなくなった佐藤麻美子も、就職した会社を退職して、隆の起業したIT会社に経理担当として転職したのだった。
「麻美子、本当に助かるよ」
佐藤麻美子のフォローもあり、今井隆の起業した会社は毎年、順調に売上げを伸ばしていき、今では従業員を5、60人ぐらい抱えるまでの中規模の会社にまで成長していた。
「温かい」
佐藤麻美子は、ヨットのキャビンでお湯を沸かして、コーヒーを飲んでいた。
「本当、温かいな。外が寒すぎるよな」
「そうでしょう!」
佐藤麻美子は、今井隆に同調した。
今井隆は、念願のマイボートでお茶をすすっていた。