ヨット教室物語・第69話
隆は、毎週自分と一緒にヨットへ乗ってくれるクルーを求めて、クルージングヨット教室の生徒さんたちを自分のヨットに受け入れることにしたのだった。
一緒に乗ってくれるということは、セイルを上げたり下げたりする際、一緒にヨットを操船してくれる人を求めているはずだ。
セイルを上げたり下げたりするのに、女の子ばかりだなんて。
「私が、隆に変わって生徒さんのお迎えに来てしまったからかな」
と麻美子は反省していたが、実はそうではなかった。
隆は、毎週自分と一緒にヨットへ乗ってくれるクルーを求めて、クルージングヨット教室の生徒さんたちを自分のヨットに受け入れることにしたのだった。
一緒に乗ってくれるということは、セイルを上げたり下げたりする際、一緒にヨットを操船してくれる人を求めているはずだ。
セイルを上げたり下げたりするのに、女の子ばかりだなんて。
「私が、隆に変わって生徒さんのお迎えに来てしまったからかな」
と麻美子は反省していたが、実はそうではなかった。
「そうよ、自分の車を持ってるのゆみちゃんだけなんだし」
シャランも社長に同意した。
「大黒ふ頭のところだから、東京からくる途中ぐらいの場所よ」
経理担当が、ゆみにバスが届く場所を説明してくれた。
「カーナビ付いているんでしょう?」
「カーナビあるけど、私ってすぐ迷うの」
ゆみは、シャランに言った。
社長も車を持っていないし、会社で車を持っているのは、東京から通っているゆみ1人だけだった。
「撮ってきたい車はどこにあるんだ?」
社長が、ゆみに聞いた。
「いま新潟から横浜港へ陸送しているところ」
ゆみの代わりに、経理担当が社長に答えた。
「そしたら、横浜港に着いたら、おまえが行って写真を撮ってくればいい」
「私が行くの?」
「そうだよ。おまえは車で通勤してるんだろう。通勤前に寄ってくればいい」
社長は、ゆみに言った。
「そんなの無理」
ゆみは、シャランに断られてしまった。
「でも、せっかく買ったばかりのバスだしきっと早く見たいのよ」
「そう言われても、無理なものは無理だから」
ゆみは、シャランに言われてしまった。
「なんて言って断ろう」
ゆみは、アフリカの海外バイヤーの気持ちを考えて困惑してしまった。
「彼にとっては大金投じて買ったバスだろうし」
「彼女、うちのヨットに振り分けられたんだ」
麻美子は、彼女の名前が呼ばれたとき、なんか嬉しかった。
「永田瑠璃子さん、柏木雪さん、中村陽子さん、鈴木香代さん」
麻美子は、クラブハウスで先生から受け取った資料を確認しながら、ラッコのヨットに振り分けられた生徒さんたちの顔を確認した。みな女性ばかりだった。
「これじゃ、隆が困らないかな」
と麻美子は感じていた。
「永田さん、柏木さん、中村さん、鈴木さん」
麻美子が教室の前方に移動すると、先生は、今度はラッコに振り分けられる生徒さんたちの名前を順番に呼んでいた。先生に名前を呼ばれる度に、呼ばれた生徒さんが返事して前方に出てくる。
最後に、鈴木さんと呼ばれた生徒が教室の一番後ろから返事して、教室の前方に歩いて来た。麻美子がさっきロープワークを教えてあげたあの可愛い女の子だった。
「うちのヨットには、どんな生徒さんたちが振り分けられるのかな」
麻美子は、自分が呼ばれるのを待ちながら考えていた。さっき、ロープの結び方がよくわからずに私が教えてあげた女の子って素直で可愛かったし、うちのヨットに振り分けられるといいな。
「ラッコさーん」
教壇の先生に呼ばれた。麻美子は、慌てて返事をすると教室の前方に移動した。
「それでは、生徒さんたちを振り分けます。自分の船の名前を呼ばれたら、オーナーさんは教室の前方にいらして下さい」
教壇の先生が、教室の後ろの方に集まっていたヨットのオーナーさんたちに声をかけた。
「ウララさーん」
先生に呼ばれて、オーナーの松浦さんは、教室の前方に移動した。先生がウララに振り分けられる生徒さんたちの名前を呼んで、呼ばれた生徒さんたちも教室の前方に移動して、これからお世話になるヨットのオーナーさんと対面した。レース艇のウララに振り分けられる生徒さんたちは流石に皆、若くて力のありそうな男性たちばかりだった。
「え、これがトイレなんですか」
麻美子は、以前、ウララの船内を覗かせてもらった時、速く走れるようにと船体を軽くするため、ほぼ何もない空っぽの船内に、パイプベッドが両サイドに4個備え付けられており、カセットのガスコンロ1個とバケツが置いてあるだけの船内を見せてもらったことがあった。
ただの青いバケツがウララのトイレで、そこへ用を足して海に流すのだそうだ。用だって、扉も何もない、ちょっとした仕切りの影へ行って、そこで済ませるのだと言う話だった。
麻美子がクラブハウスに行くと、他にも多くのヨットオーナーさんたちが生徒たちのことを迎えに来ていたのだった。その中に、ウララの松浦オーナーの姿もあった。
「松浦さんのところも、生徒さん取られるのですか」
麻美子は、この冬の間ずっとヨットに乗りに来ていて、すっかり顔見知りになってしまったウララの松浦オーナーに話しかけた。ウララは、隆の乗っているラッコのヨットとは、まるっきり違うタイプのヨットで、ヨットレースで速く走ることだけに特化して造られているヨットだった。
「そろそろ各艇に生徒さんたちを振り分けますので、オーナーさんはクラブハウスへお集まり下さい」
マリーナの職員さんが、各艇のオーナーさんに伝えていた。
「生徒さんたちを迎えに行ってくるの私が行こうか」
隆は、午前中、セーリングをして来たヨットの後片付けで忙しそうだった。お昼ごはんの後片付けを終えた麻美子は、隆に提案した。ヨットのセイルを折りたたんでいた隆は、黙って麻美子に頷いた。
あんなに大勢の生徒さんたちがヨットに乗りに来てくれるのだったら、来週からは別に私が隆と一緒にヨットに乗りにこなくても、隆もさみしくないわねと麻美子は思っていた。
「来週からは、私がヨットに来なくても大丈夫よね」
麻美子は、隆にそう伝えようと思いつつも、ずっと言い出せずに言いそびれていた。
午前中、ヨットで海に出航して、昼過ぎにマリーナへ戻って来て、キャビンでお昼を作って、デッキで昼食を食べているときも、麻美子は隆にそのことを伝える機会を逃していた。
今朝の横浜のマリーナは、随分と人が多く騒がしかった。
今日から今年のクルージングヨット教室が始まるので、マリーナにはヨット教室を受講する生徒さんたちがいっぱい集まって来ていて、いつもは静かなマリーナの敷地内が騒々しいようだ。
生徒たちの間をかき分けて、麻美子は隆と一緒に自分たちのヨットに乗った。
「夕方から生徒たちの引き渡しだから、午前中は少しだけ海に出て帆走してこよう」
香代は、このお姉さんもヨットのオーナーさんで、生徒のことを迎えに来ているんだと思った。
「俺らも、来週からあそこに停まっているどれかのヨットに乗れるんだな」
前の席の男性が、ロープワークの練習をしながら、横にいる仲良くなった彼と話していた。
「このお姉さんのヨットに振り分けられると良いな」
香代は、お姉さんにロープの結び方を教わりながら考えていた。
香代は、ロープワークを優しく教えてくれたお姉さんのことが、すっかり気に入ってしまっていた。
香代は、最初から最後までロープワークは、ストレートの長い髪のお姉さんに教わってしまった。
教室に集まって来たおじさん、おばさんたちは、ここのマリーナにヨットを停泊しているオーナーさんたちで、ロープワークの実習が終わった後、生徒たちは、各ヨットに振り分けられることになっていた。
「隆!私が生徒さんたちを迎えて、後で連れて行くね」
「わかった!頼む」
ストレートの長い髪のお姉さんは、教室の窓から見えるヨットのデッキで作業している男性に声をかけた。
香代が、髪の長い優しいお姉さんにロープワークを教えてもらったように、教室の周りに集まって来ていたおじさん、おばさんたちも、それぞれ生徒たちにロープワークを教えていた。
初めて教わるヨットのロープワークに、生徒たちは皆、ロープ結びを苦労していた。教室の先頭にいた先生だけでは、生徒たち皆のロープワークを見てあげられず、集まって来たおじさん、おばさんたちも生徒たちのやっているロープワークをそれぞれ手伝っていたのだった。
香代は、ストレートの長い髪のお姉さんに教わっていた。
「うまく結べる?ヨットのロープの結び方って難しいよね」
香代がロープの結び方で苦労していると、それを後ろで眺めていた長いストレートの黒髪を胸の辺りまで下ろしたお姉さんが香代に話しかけてきてくれた。
「そこは、こうやって下から通すと、うまく結べるわよ」
ストレートの長い髪のお姉さんは、香代に優しく結び方を教えてくれた。香代が気づくと、午前、午後の座学の間は、教壇の先生とヨット教室の生徒たちしかいなかった教室に、他にもたくさんのおじさん、おばさんたちが集まって来ていた。
「午後の授業を始めましょうか」
教壇に先生が戻ってくると、午後の座学が始まった。
午後は、1時間ぐらい教壇の先生の話す座学を聞くと、その後は、生徒たちそれぞれに短い長さのロープを3本ずつ配られると、そのロープを使って、ロープの結び方の実習になった。
座学の講習は、教本を片手に先生の話を聞いていて、だいたい内容を理解できていた香代だったが、いざロープワークの実習になると、なかなかうまくロープを結べずに苦労していた。
「それでは、お昼休憩にしましょう。午後は1時から始めます」
午前の座学の授業が終わって、教壇の先生もお昼を食べに教室を出ていった。生徒たちも、それぞれ教室を出て、近くのコンビニやスーパーに行って、お昼の弁当などを買ってくると、マリーナの敷地内の日当たりの良い場所でお昼ごはんを食べていた。
香代は、あまりお腹も空いていなかったし、バッグの中に持ってきたグミの袋を開けて、それをつまみながら、午前中に教えてもらった座学の内容を1人机で復習していた。
「私も、自分の殻を破りたくて今回参加したんだけどな」
周りの人たちが隣の席の人たちとおしゃべりをしている姿を眺めながら、鈴木香代は思っていた。
「それでは、座学を始めます」
50代ぐらいの先生が教室の先頭で挨拶をして、ヨット教室の座学が始まった。まず最初に、コピー機でプリントされた教本が生徒たちに配られた。鈴木香代のところにも教本が配られて、香代は教本を読みながら、教壇の先生の話に耳を傾けた。いつも学校の授業の成績もわりと優等生だった香代は、初めて聞くヨットの知識も教本の内容を読みながら座学の先生の話を聞いていると殆どの内容を理解できた。
「皆、すごいな」
後ろの席から他の受講生たちの姿を観察していると、授業が始まるのを待ちながら、周りにいる同世代の生徒たち同士で仲良くおしゃべりをしていた。お友達同士でヨット教室に応募して来たのかと思うぐらい仲良くおしゃべりしていたが、話を聞いていると、みな特にお友達同士ってわけではなく、たまたまヨット教室で一緒になった人たちが多いようだった。
「私も、自分の殻を破りたくて今回参加したんだけどな」
入り口に立っていた男性スタッフに、クルージングヨット教室の案内ハガキを見せた。
「クルージング教室は、クラブハウス2階で開催されます」
鈴木香代は、男性スタッフに案内されて、クラブハウスの階段を上がって、2階の部屋に入った。
クラブハウスの中は、これからクルージングヨット教室を受講しようという人たちでいっぱいだった。自分と同じ20代ぐらいの人もいたが、30、40、50代ぐらいの人もいて、年代は様々だった。女子と男子では、7:3ぐらいで女性の受講者の方が多かった。
「ゆみちゃん、横浜まで陸送してちょうだい」
ゆみは、経理担当に指示されて、新潟で落札した中古バスを横浜港まで陸送するように手配した。小さな自家用車だとカーキャリアーに積んで陸送されるのだったが、大型のバスなどではカーキャリアーには乗っからないので、自走して運ばれてくることとなった。
「運転手さんに、バスの写真を撮ってもらえるように頼めるかな?」
ゆみは、シャランに質問した。アフリカの海外バイヤーが自分のバスの写真を撮ってメールで送ってほしいと言うのだ。
「小さいオークション会場の方が安く落札できたりするのよね」
ゆみは、経理担当の伊馬さんが以前話していたことを思い出した。
「小さいオークション会場か」
ゆみは、中古車オークション会場のサイトで地域別に検索してみると、大阪にHAA神戸という会場を見つけた。
「ここの会場なんか、掘り出し物がわりと見つかりそうな感じの会場ね」
ゆみは、HAA神戸の車をいろいろ確認して回ったが、結局そこでは入札せずに新潟の小さなオークション会場にあった古い中古バスを落札したのだった。
「ゆみちゃん、90万の入金待っているんじゃないの?」
ゆみは、朝出社すると、経理担当に声をかけられた。
「あ、アフリカのバスの運転手さん」
ゆみは、経理担当に返事した。
ゆみは、中古車オークション会場のサイトとにらめっこしていた。今回、なかなか低めの金額で見積もってしまったため、利益をわずかでも取ろうと思うと、なかなか入札できるバスが見つからないでいた。
「なんか難しいな。もしバス見つからなかったらどうしよう」
ゆみは、せっかく入金してもらったけど返金するしかないのかなと考えていた。
「ゆみ、このバスは、いいじゃんいいじゃん」
ゆみが中古車オークション会場で探し出したバスの写真を送ってやると、マラウィの海外バイヤーからすぐに返事が返ってきた。
「このバスを、プロフォーマインボイスの値段で買えるのか?」
「うん、なんとか大丈夫よ」
ゆみは、海外バイヤーに返事した。
ゆみが送ってあげたバスは、日野の28人乗りで、折りたたみの補助席も付いたバスだった。
「うーん、このバスならどうかな」
ゆみは、中古車オークション会場のサイトで、古いバスとにらめっこしていた。
「もう少し安いのないかな?」
ゆみは、自分が見積もった金額で、会社が赤字になってしまうのは嫌だった。計算間違いしてあると思っていた利益が無くなってしまうのは、もっと嫌だった。
だから、いつも少し見積額高いかなと思っても、多めに金額を上乗せしてプロフォーマインボイスを書いていた。でも、今回の海外バイヤーはシビアに見積もるしかなさそうだった。
「そうか、バスの運転手さんになりたいのね」
ゆみは、海外バイヤーとメールのやり取りをしていた。相手は、マラウィに住むアフリカ人で、マラウィの村からザンビアの町へ通勤する人たちが大勢いるのだが、彼らを町まで運ぶバスの数が少ないのだそうだ。それで、バスの運転手になりたいらしかった。
「ハイエースに18人乗れるバスがあるのよ」
「それでは、村の皆全員を乗せられない」
彼は、ゆみに相談していた。
「少し古いバスになっても良いかな?」
「古くても良い、この予算で買えるのないだろうか」
そんな性格の香代だったが、なんとなく自分の性格を変えたいと何か新しい挑戦をしてみたいと思っていた。そんな香代がネットで目にしたのが、横浜のマリーナで開催されるクルージングヨット教室の生徒募集の告知だった。ヨットなんて一度も乗ったことがなかったが教室に応募してみたら当選した。
「大丈夫かな、私」
横浜のマリーナの前には、大勢の人たちが集まっていた。自分と同じクルージングヨット教室に参加するために来ていた人たちのようだった。
鈴木香代は、横浜のマリーナにやって来ていた。
中学、高校とも女子バスケット部だったし、運動は苦手というわけではないのだが、人見知りで賑やかな場所で過ごすことが苦手だったため、あまり外に出かけることが少なかった。
「人と話すのが、どうしても苦手だな、私」
短大を卒業後、会社に就職してOLをしているが、仕事が終わると家に直行して、お休みの日もずっと家の中で過ごしていることが多かった。
冬の間ずっと隆と一緒に乗っていたおかげで、いちおう中央の一番背の高いメインセイルと先頭についているジブセイル、最後部の操縦席の近くにあるミズンセイルを上げてヨットを動かすっていうことぐらいは麻美子でも理解できるようにはなっていた。
でも、基本的にヨットのことなんて全然わからなかった。
「こんな私が、ヨットに乗り続けていても仕方ないじゃん」
麻美子は、そう考えていたのだった。
隆は、新しくヨット教室の生徒さんが来た後も、麻美子が一緒にヨットへ乗り続けると思っているみたいだったが、麻美子は、新しいクルーが来て、隆と一緒に毎週ヨットに乗ってくれるようになったら、自分はもうヨットに乗るのはやめようと考えていた。
冬の間、寒い時期に進水したばかりの隆のヨットは、まだ他に隆と一緒にヨットへ乗ってくれる人もいなかったし、うちの母も言っていたように、隆1人だけで海へ出航させるのは何かあった時に危ないからと、自分が一緒に乗ってあげていたけど、他に一緒に乗ってくれる人がきてくれたのならば、何も自分が一緒にヨットへ乗らなくても良いだろうと考えていたのだった。
隆のヨット、フィンランド製のナウティキャット33という33フィートのモーターセーラー、セーリングクルーザーは、船名をラッコといった。ラッコのように海の上でのんびりプカプカ浮かんでいたいという隆の思いから船名を「ラッコ」にしたのだった。
「先週、隆が言っていた新しいクルーが来るっていうのはヨット教室の生徒さんのことだったの?」
麻美子は、隆に聞いた。
「そうだね。いよいよ、麻美子も先輩クルーになるんだね」
隆が、麻美子に返事した。
応募してきた生徒たちは、スクール初日だけマリーナのクラブハウスで座学、基本的なヨットの乗り方について職員から学んだあと、隆たちマリーナにヨットを停泊しているヨットに、それぞれ振り分けられて次の週からは、各艇のオーナーさんたちの元でヨットに乗艇し、乗り方を学ぶのであった。
「隆くんのところは、ヨット教室の生徒さんを取るの初めてじゃないの」
「はい、まだラッコは1月に進水したばかりですしね」
隆と市毛さんは、ラッコのキャビンの中でお酒を飲みながら話していた。
「隆くんのところは、ヨット教室の生徒さんを取るの?」
「一応、そのつもりです」
隆は、市毛さんに答えた。
隆がヨットを停泊している横浜の公営マリーナでは、毎年春に「クルージングヨット教室」と称して、横浜市民の中からヨットを習いたいという大人たちを募って、春から秋まで半年間のヨット教室を開催していた。
横浜の金沢港沖の貯木場には、その代わりに昔、横浜で開催された万博、横浜博覧会の時に使用されていた六角形のステージ型のプールが舫われていた。博覧会では、プールの中でイルカが飛び跳ねていて、博覧会の入場者たちに芸を見せて楽しませていた場所だった。
博覧会で使い終わったプールは、貯木場跡地で静かに舫われていた。隆たち、横浜のマリーナに停泊しているヨットたちは、お昼の時間になると、そこへやって来てプール脇にヨットを舫うと、そこの台座でお昼ごはんを料理し、皆で食事を楽しんでいた。
「来週から今年のヨット教室が始まるね」
お昼、隆が自分のヨットを貯木場に入れると、先に泊まっていたフェリックスのヨットのオーナー、市毛さんが隆に話しかけてきた。
貯木場というのは、港内の海外から輸入した木材などを海上に保管しておく場所のことで、そこの海上には、たくさんの木材が浮かべられていた。というのが、本来の貯木場の姿なのであろうが、現在の貯木場は、貯木場跡地みたいなところで海上には流木がちょっことしか浮かんでいなかった。
横浜のマリーナの中を、ヨット専門の暖かいオイルスキンを着て歩き回っていると、格好だけは。一人前のヨットウーマンに見えている麻美子だった。
そして、半年があっという間に過ぎて、季節は春を迎えて、せっかく初めて隆に買ってもらったヨット用のオイルスキンも着ていると暑すぎる季節になってきた。
「そろそろ、うちのヨットにも麻美子以外のクルーも来るぞ」
「そしたら、麻美子も先輩クルーだね」
「先輩クルーって、私、ヨットのことは全然わからないけど」
麻美子は、隆に答えた。
「こんなの高くないの?」
「いいよいいよ、俺といつも一緒に乗ってくれているし。麻美子が毎週寒そうに乗っているから」
「隆は、社長さんでお金持ちだものね」
麻美子は、隆の頭を小突きながら、笑顔で笑った。
その7万円もする暖かいオイルスキンを着て、ヨットに乗っていると、寒い冬の海の上でも暖かく過ごせて快適だった。
「お、麻美ちゃん」
冬の間ずっと毎週のように、横浜のマリーナに通っていると、フェリックスの市毛さん以外にも、横浜のマリーナにヨットを停泊しているオーナーさんたちともすっかり顔見知りになってしまっていた。
麻美子が、街中で皆がよく着ている一般的なコートを着て、冬の海のヨットに乗っていると、それでは寒いだろうと隆が、自分のお金でヨット専門の風を通さない暖かいオイルスキンを購入してくれた。
「これって7万円もするよ!」
「私、別にクルーではないんだけど」
「もうクルーみたいなものじゃん。俺と一緒にうちのヨットに乗っているんだから」
それから、寒い冬の間ずっと毎週のように隆は、自分のヨットに乗っていた。
「あんたも一緒に乗ってあげなさいよ」
麻美子は、母から隆が1人で海にヨットを出していて何かあったらいけないからと言われた。そんなわけで、この冬は寒い中、毎週のように横浜のマリーナに通うこととなった麻美子だった。
「うちのクルーの麻美子です」
麻美子が、リビングにいる市毛さんたちに、おつまみの盛り付けられたお皿を持って行くと、隆が麻美子のことを市毛さんたちに紹介してくれていた。
「いつも隆がお世話になっています。よろしくお願いします」
いつの間にか、麻美子は隆のヨットのクルーにされてしまっていた。
ヨットのクルーとは、そのヨットのオーナーと一緒に乗っている仲間、船員のことだ。
「クルーってそういう意味だったの」
麻美子は、フェリックスの人たちが帰った後に、隆から意味を聞いた。
「フェリックスの市毛さん」
隆は、隣に横付けしたヨットのオーナー、市毛さんのことを麻美子に紹介した。そして、隆はキッチンの冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、リビングのソファに腰掛けている市毛さんたちに手渡した。
「サラダの前に、何かビールのつまみになるようなものを作ってくれるかな」
隆は、麻美子に命じた。麻美子は、船長の隆に言われて、既に作り始めていたサラダを中断して、冷蔵庫の中からつまみになりそうなものを作って、お皿に盛り付けた。
麻美子は、隆がいなくなったキッチンの中に入ると、お鍋にお湯を沸かして、パスタを茹でる準備を始めた。パスタを茹でている間に、隆が出してくれた生野菜を切り刻んでサラダを作った。
「あ、麻美子が作ってくれていたんだ」
キャビンの外から戻って来た隆は、料理していた麻美子に声をかけた。
隆の後ろからキャビンの中に入って来たのは、隆のヨットの真横に横付けした同じ横浜のマリーナに保管しているヨットのオーナーとクルーたちだった。
「今日のお昼は、生野菜とパスタがあるから、サラダとスパゲッティにしようか」
ヨットのキッチンにある食料庫から野菜とパスタを取り出している隆の姿をみて、隆が料理してくれるごはんなんて初めて食べるからちょっと楽しみだなと麻美子は期待していたが、しばらくパスタのパッケージに書いてある説明文を読んでいた隆は、諦めたようにキャビンの外に出て行ってしまった。
「結局、私が作らないとだめか」
「なるほど、この本は読みやすいですね」
イアンは、社長に言われて、社長が著者の会社で発売している中古車輸出業の教本を読んでいた。中古車輸出に興味のある方へ販売している教本だったが、会社に新人が入社した時の新人教育用の教本としても使っていた。
「どうだ、できそうか?」
「はい、この教本読みながらやれば、簡単にできそうです」
社長は、自分が書いた教本がわかりやすいと言われて、嬉しそうだった。
ゆみが働いている横浜の貿易会社は、人の出入りが激しい会社で、ウガンダの人が入社し退社したり、オーストラリアの人が入社し退社したりと、人の入れ替わりが多い会社だった。
「私、いまグルジアの人と話してるから、その海外バイヤーあげる」
「いや、それは、ゆみの海外バイヤーなんだから、ゆみがやれ」
イアンにロシア系の海外バイヤーを分けてあげようとしたら、社長と部長に断られた。
「ゆみちゃん、グルジアのバイヤーサボろうとしたね」
「だって、私は営業じゃないし」
「だめよ、バレバレなんだからサボりは」
シャランに言われてしまったゆみだった。
「今日から一緒に働くイアン君だ」
「よろしくお願いします」
白人の男性は、流暢な日本語で会社の皆に挨拶した。ロシア系のカザフスタンから来た青年だった。
「ゆみちゃん、良かったね」
「え、そんなわけじゃないよ」
ゆみは、シャランに苦笑した。カザフスタンやウズベキスタンとかスタンが最後につく国名は、ロシア、旧ソビエト連邦から独立した国々に多い名前だ。
隆がエアコンのスイッチを入れてくれたらしく、しばらくするとキャビンの中はポカポカと暖かくなってきた。
麻美子がキャビンの中にあるソファに腰掛けて暖まっていると、ヨットは金沢沖の漁港に入港して、そこの岸壁にロープで舫われた。隆のヨットが岸壁に舫われ停泊すると、隆のヨットと同じ横浜のマリーナに停泊しているヨットがやって来て、隆のヨットの横に横付けで停泊した。
これから、ここでお昼ごはんとなった。
「隆、キャビンの中に入っていても良いかな」
ヨットが海に出航してからずっと船上のデッキにいた麻美子だったが、さすがに海の寒さに耐えきれなくなって来たので、隆に声をかけてからキャビンの中に逃げこんだ。
「船内には、暖房も付いているんだよ」
一緒にキャビンの中に入って来た隆は、操舵室の計器板にあるスイッチを入れると、自分はまたキャビンの外に出て、セイルの操作に戻っていた。
「さあ、セイルを上げよう」
隆は、マストの根元に移動すると、ロープを引っ張ってセイルを上げていた。セイルは全部で3種類あって、船体の前方から順番にジブ、メイン、ミズンというのだそうだ。それぞれのセイルを上げると、セイルを引っ張ったり出したりして調整すると、セイルに風を受けて、ヨットは走り出した。
生まれて初めてヨットに乗る麻美子には、セイルをどう出したり引っ張ったりすれば、ヨットが走り出すのかさっぱりわからなかった。ただ、隆がセイルを操作しているのを黙って眺めているしかなかった。
「まだ進水したばかりでクルーもいないし、来週はシングルで乗るよ」
初め、隆からそう聞いたとき、シングルというヨット用語の意味がわからなくて、まさか1人でヨットに乗るつもりだとは思っていなかったのだった。
ヨットのシングルとは、シングルハンドの略で、1人でヨットに乗るという意味だったのだ。
「それは心配だから、私も一緒に乗りに行くわよ」
麻美子は、隆に伝えて、いま寒い海の上のヨットにいるのだった。
「うわ、寒いっ」
佐藤麻美子は、海に出航した隆のヨットの上で呟いた。
麻美子は、本当は寒いし冬のいまの季節は、ヨットに乗るつもりはなかったのだが、隆が進水したばかりの新しいヨットに1人で乗るというので、何かあったら心配なので一緒に乗ることにしたのだった。
「まだ進水したばかりでクルーもいないし、来週はシングルで乗るよ」
「今週は、船内で寛いだだけだけど、来週はヨットを海に出してセーリングしよう!」
「この寒い中、海に出る気なの?」
「もちろん!ヨットは、むしろ冬の方が風があって良い季節なんだ」
隆は、麻美子に答えた。
「1人じゃないよね?誰かヨットのお友達と出るんでしょう?」
「今のところは、麻美子と2人だけかな」
「私は寒いから出ないわよ」
「はーい」
会社出入り口に一番近くの席のゆみが、来客者の対応していた。
「面接に来ました」
「ありがとうございます、どうぞこちらへ」
ゆみは、背の高い白人を社長室へと案内した。
「ね、すごいかっこ良い人だと思わない」
「そうかな、私のタイプじゃないかな」
みなと横浜の、車の海外輸出をしている貿易会社だけあって、海外の人たちの応募が多かった。
「あと、アフリカのランドクルーザーも落札するんでしょう」
シャランは、ゆみに聞いた。
「うん、海外バイヤーにどの車にするか聞いているところ」
「そうか、入札するのはその後か」
「うん」
ゆみは、シャランに答えた。
「すみません、面接に来ました」
会社の入り口に背の高い白人が立っていた。
「そうか、福岡の会場で落札したから福岡の港に陸送するのね」
ゆみは、シャランに頷いた。
「うん、大阪会場なら大阪港、名古屋会場なら名古屋港みたいに」
「なるほどね、北海道なら北海道港、沖縄会場なら沖縄港ね」
「北海道とか沖縄だと船が直接出ていなかったりするから東北とか九州まで持ってくることもあるのよ」
「あ、船が出航しない港もあるのか」
「そう、新潟会場なんかも横浜港まで陸送したりするわ」
「なるほど、落札した会場と輸出先の国への船が出航する港と合わせて、陸送する港は考えるのね」
「フィンランド製のヨットだから、標準でサウナまで完備しているんだ」
「サウナも、ベッドもキッチンもトイレも、リビングルームまであって、ここで住めそうじゃないの」
「うん。船内で生活して、世界じゅうどこへだって行けるさ」
「ヨットで世界じゅうに行くつもりなの?」
「行こうと思えば、いくらでも行けるさ」
隆は、船内のソファに腰掛けながら、麻美子に答えた。
麻美子は、キャビン後部の部屋に入ってみると、大きなベッドが備わっていて、ベッドの脇には鏡台まで備わっていた。その手前の扉を開くと、シャワールーム付きのトイレ、バスルームが付いていた。
「このバスルームは、サウナも付いているんだぜ」
隆は、バスルームのスイッチをいじって、サウナの電源を入れた。
「もう中目黒のジムに在るサウナルーム使わなくて良くなるわね」
麻美子は、いつも隆が自分の家に遊びに来たとき、利用しているジムのサウナルームを思い浮かべながら、隆に返事した。
「いや、海の上のヨットでは、俺だって自炊ぐらいするさ」
「そうなんだ。いったい何のお料理するの?」
麻美子は、隆が料理している姿などぜんぜん想像がつかなかった。
「船長の俺が作らないとしても、クルー(船員)の誰かが作るさ」
「隆のヨットってクルーなんかいるんだ」
「今は、まだ進水したばかりでいないけど、そのうち集まってくるさ」